最後の雪お母ちゃんは、病院のベッドで、編み物をしていた。 お母ちゃんが編み物をしている姿なんて初めてみた。 不思議だった。 赤い毛糸が、白いシーツの上で、お母ちゃんの指先の動きに合わせて、 右に左に揺れる。 引き戸を開けてのぞいたあの雪の道。 何度も振り返りながら泣いてたお腹の大きなお母ちゃんが、 巻いてた赤い毛糸の肩掛け。 あの赤と同じだ。 あの頃のお母ちゃんは、いつも忙しそうにしていた。 私は、2つ下の弟と、3つ下の弟と、6歳下の妹のお守りばっかりだった。 それでも、時々、下の兄弟が寝たあと、お母ちゃんの膝の上に乗るのが好きだった。 「なあ、ちーちゃん、あんじょう、下の子みたってや」 お母ちゃんは、膝に乗った私の頭を撫でて、そう言った。 お母ちゃんのお腹に頭をつけると、ごそっと動いた。 「赤ちゃんおるん?」 私が聞くと、お母ちゃんは、何も言わずに下を向いた。 私は、胸騒ぎがして、お母ちゃんにしがみついた。 お母ちゃんのお腹が大きくなってきたのを、お兄ちゃんは気づいていた。 長い入院生活をしているお父ちゃんの子供じゃないことは、 もう18歳になるお兄ちゃんには、わかっていた。 大阪に珍しく積もるほど雪が降ったあの夜。 「出て行け!」 お兄ちゃんは、すがるお母ちゃんを突き飛ばした。 私は、何がなにかわからず、柱に隠れて泣きじゃくった。 怖くて、声が出なかった。 「行かんといて。お兄ちゃんやめて。」 言葉にならない声を、心で繰り返した。 「ごめんな。堪忍してな。堪忍してな。」 お母ちゃんは、玄関で泣きながら何度も繰り返した。 まだ、3歳になったばかりの末妹は、お母ちゃんにすがりついて泣いた。 お兄ちゃんは、それを引き離し、 お母ちゃんを外に出して、引き戸をぴしゃりと閉めた。 私は、走って追いかけたけれど、 お兄ちゃんの怖い顔を見たら、玄関まで行くのが精一杯だった。 引き戸を少し開けて、お母ちゃんの背中を見て泣いた。 白い雪の中に、赤い肩掛けが小さくなってとけていく。 見失わないように、目をこらしても、涙で赤い色が滲んでいった。 「今日から、もう、お母ちゃんはおらんからな。」 お兄ちゃんは、そう言った。 お兄ちゃんの目には涙がいっぱいだった。 8年。もう、あれから8年も経った。 お母ちゃんと会うのは、あの雪の日以来だ。 会うことに随分迷った。 でも、どうしても、嫁ぐ前に会っておきたかった。 もうすぐ8歳になる女の子は、病室のベッドの脇にくっついて、 ずっとお母ちゃんの編み物を見ている。 お母ちゃんに、よく似てる。 この子を産んでから、お母ちゃんは、産後の肥立ちが悪く、 ほとんどをここで過ごしてたらしい。 私だけが、お母ちゃんのお腹ごしに、この子の命を感じたんやね。 そう思ったら、憎しみよりも愛しさがこみ上げてきた。 お母ちゃんの髪の毛は、もう真っ白だった。 いつのまに、こんなおばあちゃんになってしまったん? 心の中の言葉を、飲み込んだ。 「何編んでるん?」 お母ちゃんに聞くと、 「腹巻や。もう、外は寒いやろ。この子に腹巻やねん。」 そう言って、お母ちゃんは、その女の子のおかっぱ頭をなでた。 私は、あの日の引き戸の向こう側の自分を想い出して、 なんだか、無性にいたたまれなくなった。 「帰るね。また来るわ。」 そう言って病室を出ようとした。 「ちーちゃん、堪忍な。下の子、あんじょうみたってな。」 消えそうなお母ちゃんの声が、心に落ちた。 「うん。お母ちゃんも、養生してな。」 お母ちゃんの方を振り返ると、優しい顔してた。 あの膝の上に乗せてくれたお母ちゃんの顔だった。 たぶん、これが、私がお母ちゃんに会う最後なんだと思った。 病院を出て、病室の方を見上げると、8歳の妹が手を振っていた。 あの子も、私と同じに、お母ちゃんを失ってしまうんや。 そう思うと、心が痛くなった。 手を振りかえした先に、赤い毛糸が絡まっている。 「お母ちゃん行かんといて。」 私は、あの日みたいに、心で叫んだ。 静かに音を立てずに 雪が降っていた。 ジャンル別一覧
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